2009年12月17日

8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは

8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは、治水は非常に重要視された。律令上、治水は国司および郡司の主要任務である勧農の柱の一つに据えられ(『職員令』大国守条、『考課令』国郡司条)、水害が発生した際の応急処置の手続きまで詳細に定められていた(『営繕令』近大水条)。また、河川などの水を公共物として農業用水などの利用や洪水対策などの方針については国家が定めるとした「公水主義」が掲げられていた。畿内近国では、淀川などの大河川で水害が発生した際、国司・郡司では対応が困難なため、中央から特に「修理堤使」や「検水害堤使」「築堤使」などが派遣され、国家直営の治水対策が実施されることもあった。また、平安京に近い賀茂川や遠江国の荒玉河などでも大規模な工事が行われている。このように律令国家による治水は、一定以上の機能を発揮していたが、9世紀後期から10世紀の間に律令国家体制が形骸化するのに合わせて、公水主義が放棄されて地元の豪族などに用水の管理などを一任されるようになり、律令国家の治水も衰退していった。この時期の治水は小規模な用水路や溜池造営に留まるようになる。空海が築いたとされる満濃池はその代表的なものである。

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律令国家に代わって治水を担ったのは、当時経済力をつけつつあった地方の富豪(田堵負名)たちである。11世紀には富豪層が経営する開発請負業者が出現するまでになっていた。ただし、彼らは決して領域的な治水対策を行った訳ではない。12世紀頃に始まる中世社会においても事情は変わらず、荘園・公領の支配者・権利者たち、すなわち荘園領主・在地領主・受領・在庁官人らは、職の体系の制約の中で、自らの権利が及ぶ範囲内で治水対策を施したのである。12世紀以降、新たに治水の担い手として登場したのは、東大寺および西大寺などの勧進僧たちである。重源や忍性に代表される勧進僧らは、勧進活動の一環として治水にも取り組んだ。勧進僧らの治水事業は、例えば備中国成羽川の開削事業などが知られている。14世紀に入り、独自の自治権を獲得した村落、すなわち惣村・郷村が登場すると、これら惣村・郷村の構成員である百姓のほか国人らも、自ら治水対策を講じるようになった。

領域的・体系的な治水が本格的に復活するのは、戦国時代・安土桃山時代(15世紀後期 - 16世紀末)のことである。

2009年12月01日

伏見稲荷大社について

伏見稲荷大社について『日本書紀』では次のように書かれている。 稲荷大神は欽明天皇が即位(539年または531年)される前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅4年(711年)2月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。

諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代に前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。いずれの説も今後の検証の必要がある。
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雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろう。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神を鼎立した。

深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようだ。

2009年11月27日

水温躍層

混合層の下層に位置する水温躍層(季節躍層、永久躍層)においては、深度に比例して水温が下がるので、それにより音波が下向きに曲げられて進む。

下向きに進んだ音波は、浅海ならばその後海底で反射されて海面まで進んで行き、海面で反射されてもう一度海底まで進む・・・という事を繰り返して伝搬して行く。そのため、海底の間に音波が届かないシャドー・ゾーン(不感帯)と呼ばれる部分が形成され、ここはソナーの死角となる。

深度1000mを超えた辺りから水温はほぼ一定になるので、この層は深海等温層と呼ばれる。水温がほぼ一定になる事により、音波は下向きに進まなくなる。逆に、今度は水圧により上向きに曲げられて海面方向へ進んで行く。
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これにより、深度3000?5000m以上の深海では、いったん海底方向まで進んだ音波が戻ってきて再び海面に集まるので、何もない海面上で突然ソナーに反応がある現象が起こる。この海域を収束帯(コンバージェンス・ゾーン,CZ)と呼び、発信源から距離27?33海里毎、幅4?5海里の区画にCZが現れる(海水の成分や温度により変化する)。CZを利用すれば自艦から27?33海里彼方にある敵艦の探知も可能(条件が良ければさらに第二収束帯、第三収束帯・・・つまり81?99海里の彼方まで探知可能)となる。そのため、パッシブ・ソナーにてCZで探知した敵を直ちに攻撃できるように対潜ミサイルが開発された。

また、深度1000m付近の水温躍層と深海等温層との間では、水温と水圧のバランスによりサウンド・チャンネル、SCと呼ばれる音波伝播層が出現する。SCでは反射による音波の吸収・減衰が無いので、非常に遠くまで音波が伝播して行く。クジラなどはSCを利用する事で、超音波により何千海里も離れた仲間と連絡を取っている。SCは稀に浅海でも発生する事もあり、詳しい原理は解っていない。

2009年11月13日

第一次信長包囲網

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになる。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前国の朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井氏に背後を突かれる形となった。挟撃される形となり窮地に追い込まれた織田・徳川連合軍であったが、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉・徳川家康らの働きもあり、なんとか京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長が京に帰還したとき、従う者は僅か10名ほどであった。

これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化した。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。
スーパーロボット
ダブルスコア
ドリーム☆アゲイン
はじめの一歩
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フルーツバスケット
ホワイトテリア
モーニングムーン
りんりん健康ビューティー
葵のお仕事

対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど[8]苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

元亀元年(1570年)8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する(野田城・福島城の戦い)。

2009年11月02日

信号処理は信号の解析や操作を扱う分野である

信号処理は信号の解析や操作を扱う分野である。信号には連続的に変化するアナログ信号と、離散的な値をとるデジタル信号がある。アナログ信号の場合、信号処理は音声信号などの増幅やフィルタリング、電気通信における信号の変調や復調を扱う。デジタル信号の場合、信号処理は標本化された信号の圧縮や誤り検出訂正を扱う。

デジタル信号処理は、既存のアナログのシステムがデジタルのシステムに置換されていくにつれて、その応用範囲が通信、放送、電力、医療など急激に拡大している。
観葉植物広場
せの付く言葉
四季の祭り
コーヒーで一息
柴犬について
番茶百科
サンタはどこ
蘭の世界紀行
おいしいお菓子
スノーボード

かつてアナログ信号処理はアナログのハードウェアで実装されたシステムの設計を数学的に表すだけのものだったが、デジタル信号処理は設計を数学的に記述するだけでなく、ハードウェア問題とは独立してそのまま(ソフトウェアまたはハードウェアへの埋め込みで)実装することもできるようになった。そのためデジタル信号処理は重要性を増しつつある。

信号と信号が運んでいる情報には強い関係があり、信号処理は情報処理と等価でもある。それが信号処理に幅広い用途がある理由である。DSPチップは、テレビ、ラジオ、携帯機器、音響機器、ノイズリダクションアルゴリズム、MP3プレーヤー、GPSカーナビゲーション、各種画像処理・音響処理・音声処理システムといった様々な電子機器に組み込まれている。

2009年10月23日

国際結婚と離婚率

アジア、中東、アフリカ、南アメリカなど日本より経済力の劣る地域・国々の出身者が日本人と結婚する場合、経済力の差を反映して、男女問わず出稼ぎや日本国内に滞在するためのビザの取得を目的とする結婚事例も少なくないと目される。結婚生活が破綻し、離婚に至るケースも少なくない。

「離婚率」は通常、1年間に捕捉出来た離婚件数を分子とし、人口千人あたりの数値を提供する。これによると、日本人の離婚率は人口1000人あたり、1.5となる(出典:『事典 家族』)。
エンゲージリング
オトナモード
お風呂で癒し気分
キューピーさん
ケンカ番長
ささゆりの里
シルキーみんなの政治
ソウルでミュージック
でかこかあさん
にんにくおしょう
バナナ・ボート
ひなの灯台下暗し
フレンドバイオコンピューター
ホラー大魔王の秘密
メタボ親父
ラジオ体操
愛と平和
一番の願い
乙女座
花水木

日本とアジア諸国との経済水準の差に目を付けて、この地域からの結婚を名目とした出稼ぎも存在するとみられており、「日本人夫」が知らないうちに婚姻届を出され、見ず知らずの相手との結婚が成立していたという事例や、「日本人夫」が仲介業者を介して名義を貸し偽装結婚に加担していたという事例も判明している。

仲介業は日本の暴力団などと海外のマフィアなどとが提携して行われるのが通例である(これは、性風俗業従業員の仲介に関しても同様)。

それは形態としては国際結婚であるが、いわゆる偽装結婚であり両人に夫婦としての実体は存在しない。

2009年06月22日

唯物史観(ゆいぶつしかん)とは

唯物史観(ゆいぶつしかん)とは、19世紀にカール・マルクスの唱えた、普遍的な歴史の発展法則とされるものであり、経済における諸関係が歴史の展開の主原因と考える歴史観である。唯物史観という言葉は、史的唯物論と同じ意味で使われる。また哲学においてヘーゲルの考えた弁証法(矛盾から変化が起こる)の考え方を取り入れているため唯物弁証法(弁証法的唯物論)との関係が深い。

またフォイエルバッハから唯物論の哲学を受け継いでいる。

マルクス主義者、マルクス経済学者、一部の歴史学者において普遍的な歴史法則として捉えられている。

資本主義経済の仕組みを分析したカール・マルクスは、歴史はその発展段階における経済の生産力により一定の生産関係に入り、生産力と生産関係の矛盾により進歩するという考えに基づいて、唯物史観の概念を発展させた。生産関係とは、共同狩猟と食料の採集であり、封建領主と農奴の関係であり、資本主義段階における 労働者と資本家の間に結ばれる契約というような概念である。マルクスは、生産様式、搾取、剰余価値、過剰生産、物神崇拝などについて分析することで19世紀当時の資本主義の論理を厳密に考察したのち、資本主義はその内在する矛盾から必然的に社会主義革命を引き起こし、次の段階である共産主義に移行すると考える。

マルクスやマルクス主義者の理論は歴史の発展過程を以下のように説明する:
星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
めの付く言葉
音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
ボイスドラマ
九州
カポエラ
ビオトープ
縄跳び
包装
ソフトボール

社会の発展は、その社会のもつ物質的条件や生産力の発展に応じて引き起こされる。
社会は、その生産力により必然的に一定の生産関係(おおまかに言うと経済的な関係)に入る。それは社会にとって最も重要な社会的関係である。
生産力が何らかの要因で発展すると、従来の生産関係との間に矛盾が生じ、その矛盾が突き動かす力により生産関係が変化(発展)する。これが階級闘争を生み出し歴史を突き動かす基本的な力であると考える。
生産力や生産関係は、個々の人間の意図や意志とは独立して変化する。
政治制度や文化、宗教など歴史の非経済的要因は上部構造と規定され、生産関係を中心とする経済のあり方(土台=下部構造)に規定される。(下部構造が上部構造を規定する)
国家は、その種類にかかわらず、支配階級のための権力機構(権力組織)である。言い換えれば、国家とは、ある一階級が自らの支配を安泰にし、自らの好ましい生産関係を社会に強いるための手段である。
国家権力は、社会的、政治的な革命によってのみ、一つの階級からもう一つの階級へと移行される。
今ある生産関係の形態がもはや生産力の発展を助けず、その足かせとなるとき、革命がおきる。
狩猟採集社会は、経済力と政治力が同じ意味を持つ組織であった。封建社会では、王や貴族たちの政治力は、農奴たちの住む村々の経済力と関係していた。農奴は、完全には分離されていない二つの力すなわち政治力と経済力に結びつけられており、自由ではなかった。マルクスは、資本主義では経済力と政治力が完全に分離され、政府を通して限定的な関係をもつようになる、と述べた。彼は、国家をこの分離の表われであると受け取った。すなわち、国家はその社会の本質的関係に基づいて起こる階級間の大きな利害の衝突をうまく抑えるために存在する、ということである。

2009年06月05日

出羽国(でわのくに)は、かつての日本の

出羽国(でわのくに)は、かつての日本の地域行政単位である国の一つである。範囲は今日の山形県と秋田県にほぼ相当するが、秋田県北東の鹿角市と小坂町(鹿角郡)は含まれない。羽州(うしゅう)とも呼ばれた(出雲国との重複を避けるため二文字目を用いる)。延喜式での格は上国、遠国。明治元年に羽前国と羽後国に分割されたため、以後、両羽とも呼ばれた。
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出羽の起源は、708年(和銅元年)9月28日に、越後国に設置された出羽郡である。 712年(和銅5年)9月23日に出羽国に昇格し、翌月陸奥国から長井郡(後の置賜郡)と最上郡を譲られて国としての体制が整った。以後陸奥国と並ぶ辺境の国となり、733年(天平5年)頃には雄勝郡が設置されたと見られる。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、759年(天平宝字3年)には雄勝城の設置に合わせ改めて、雄勝郡、平鹿郡が置かれた。その後8世紀中に、秋田郡、河辺郡が置かれ、山本郡(後の仙北郡)が平鹿郡から分離するなど徐々に領域を北に伸ばした。886年(仁和2年)には最上郡から村山郡が分離し、その後延喜年間までに出羽郡から飽海郡、田川郡が分離したと見られている。なお、平安時代まで、出羽は「いでは」と読んでいた。

秋田郡以北の建郡の状況はよく分かっていない。平安時代初期までは、蝦夷を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる紫波郡が出羽国管轄の「志波村」とされているなど陸奥との境界は不分明であったが、平安時代末期には奥州藤原氏の支配を通じて出羽国府の直接管轄地以北が陸奥国として整理されたと見られている。この時期に陸奥国比内郡(後に秋田郡北部)、鎌倉時代初期には河北郡(当初は陸奥国か出羽国か不明、後に出羽国檜山郡を経て山本郡)が置かれ、これらは中世末期までに出羽国の領域に入ったとする見解がある。

1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われた。同日、出羽国は、現在の山形県にほぼ相当(庄内地方最上川以北は含まれない)する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に2分割された。このとき、陸奥国も5分割された。

2009年05月02日

蜻蛉切(とんぼきり)

セキュリティ・クレジット関連暮らし上手情報
わきが・多汗症関連ようこそ医療サイト
墓地・ペット関連買物王ガイド
プリスクール・海外留学関連教育対策全国情報ガイド
海外・国内・交通地図関連レジャー検索エンジン
ネイルアート・美容室関連美的生活ガイド
賃貸マンション・賃貸マンション関連経済支援紹介
運勢・結婚関連くらしのお手伝い情報
介護・老人ホーム関連家庭の医学・健康情報
菜園・おもちゃ関連買物隊ガイド

蜻蛉切は元々服部氏の所有であったが、本多忠勝が後にそれを譲り受けた。蜻蛉切は、忠勝が多くの功績を挙げた槍の号(あだ名)であり、その活躍により、この槍は「天下三名槍」の一つに数えられている。穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話から、この名が付いた。茎には村正の一派と言われる『藤原正真作』の銘があり、刃長43.8cmの笹穂型の大身槍である。柄の長さは6mほどであったといわれる(通常の長槍は4.5m)。しかし、晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「槍は自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を短く詰めてしまった。岡崎城などでそのレプリカを見ることができる。

2009年04月17日

城濮の戦い

城濮の戦い(じょうぼくのたたかい、中国語 城濮之戰 Chéngpú zhī zhàn)は中国春秋時代の紀元前632年に晋と楚とが、城濮(現山東省西部の濮県の南)にて激突した戦い。晋の文公が覇者としての地位を確立した戦いである。

事前の経緯 [編集]
紀元前638年、宋の襄公と楚の成王が激突した泓水の戦いは楚の大勝に終わり、宋は楚の影響下に置かれることになった。

その翌年、晋の亡命公子である重耳(後の文公)は斉から宋へとやってきて、襄公の歓待を受けた。襄公はこのあと、まもなく死去する。その後で重耳は楚へと入り、ここでも成王の歓待を受けた。宴の最中に成王は「もし国に帰って晋公になることが出来たら私にどう報いてくれるでしょうか?」と問いかけた。重耳は「もし王と戦場で見えることがあったら三舎(舎は軍が一日に行軍する距離)だけ軍を引きましょう。」と応えた。これに成王の臣下である子玉は王に対して無礼だと怒り、殺してしまいましょうと成王に言ったが、成王は重耳の器を認めていたのでこれを退けた。

その後、重耳は秦の助けを借りて晋公の座に就く(以後、文公とする)。文公は狐偃・先軫らの補佐を受けて、周王室の内乱を収めるなど急速に勢威を広げていた。襄公の後を継いだ成公は晋の力を借りて楚の影響下を脱しようと、楚との盟約を反故にして晋との親善を深める。このことに不快感を抱いた成王は紀元前633年に軍を発し、陳・蔡・鄭・許らの諸侯と共に宋の首都を包囲し、宋は晋へ救援を求める。

これに応えて文公は三軍を召集し、宋の救援へと向かう。

晋軍の編成
中軍
将・郤縠、佐・郤臻
上軍
将・狐偃、佐・狐毛
下軍
将・欒枝、佐・先軫
(『史記』による。『春秋左氏伝』には狐毛が将、狐偃が佐になっている。)

城濮の戦い [編集]
紀元前632年、晋軍はまず楚の盟下にある曹を攻めようとし、衛の成公に領内の通過許可を求めた所、断られた。かつて放浪時代に先代の文公に侮辱を受けいていたこともあり、怒った文公は衛を攻めて五鹿と言う土地を奪った。この後で郤縠が急死したので代わって先軫を中軍の将に抜擢した。

衛国内で斉の昭公と会盟し、今後のことを話し合った。晋に攻められて恐れていた成公がこれに参加したいと申し出てきたが、文公はこれを撥ね付け、成公は更に楚に和親しようとしたがこれも断られ、成公は臣下により追放され、衛は晋に降った。その後で曹を攻めて、これも降す。

この戦果を元に、先軫の進言により、「衛と曹の土地を宋に与え、その土地を斉と秦に割譲する。その上で宋から斉・秦に宋包囲を止めるようにと楚へ言ってもらう。盟下にある衛と曹を守らねばならない楚はこれを断るに違いない。そうすれば斉・秦は楚を恨むようになるだろうし、楚の方も宋を攻めるよりも衛・曹の方へと意識が向くだろう。」という策を実行し、思い通りになった。

戦況が不利になったと見た成王は本国へと引き上げていった。しかし子玉は成王の怒りを買いながらも残留し、晋に対して「晋が衛と曹を許すなら楚も宋を許す」と申し入れてきた。晋はこれを逆手に取り、衛と曹を寛大に許してやり、衛と曹は楚との盟約を破棄し、晋に親しむようになった。

このことに怒った子玉は晋軍を攻撃する。この攻撃に対して文公はかつての約束を守って、軍を三舎退かせた。臣下はこのまま楚軍と戦うことを進言したが、文公は一旦軍を退却させた。

4月己巳の日に両軍は城濮で激突。

楚軍の編成
中軍・子玉
左翼・子西
右翼・子上
まず楚の右翼が晋の下軍に攻められて崩れる。その後、上軍と下軍はわざと負けた振りをして楚の左翼をおびき寄せ、中軍と挟み撃ちにしてこれを破った。

戦後 [編集]
晋の大勝に終わり、晋は践土(現河南省温)と言う所に王宮を作り、ここに周の襄王を招いて、諸侯と会盟した。この時に楚の盟下にあった鄭も晋の盟下に移った。文公は襄王からのもてなしを受け、覇者と認められた。

一方、敗れた子玉は楚へと帰還するものの成王の怒りに触れて自殺を強いられる。

この戦いにより楚の盟下から宋・曹・衛・鄭の四国が晋へと移ったことになり、更に晋と斉・秦の結びつきもいっそう強くなり、以後景公の代に荀林父の率いる晋軍が楚の荘王に敗れるまで(邲の戦い)は晋の覇権が確立される。

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