8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは
8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは、治水は非常に重要視された。律令上、治水は国司および郡司の主要任務である勧農の柱の一つに据えられ(『職員令』大国守条、『考課令』国郡司条)、水害が発生した際の応急処置の手続きまで詳細に定められていた(『営繕令』近大水条)。また、河川などの水を公共物として農業用水などの利用や洪水対策などの方針については国家が定めるとした「公水主義」が掲げられていた。畿内近国では、淀川などの大河川で水害が発生した際、国司・郡司では対応が困難なため、中央から特に「修理堤使」や「検水害堤使」「築堤使」などが派遣され、国家直営の治水対策が実施されることもあった。また、平安京に近い賀茂川や遠江国の荒玉河などでも大規模な工事が行われている。このように律令国家による治水は、一定以上の機能を発揮していたが、9世紀後期から10世紀の間に律令国家体制が形骸化するのに合わせて、公水主義が放棄されて地元の豪族などに用水の管理などを一任されるようになり、律令国家の治水も衰退していった。この時期の治水は小規模な用水路や溜池造営に留まるようになる。空海が築いたとされる満濃池はその代表的なものである。
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律令国家に代わって治水を担ったのは、当時経済力をつけつつあった地方の富豪(田堵負名)たちである。11世紀には富豪層が経営する開発請負業者が出現するまでになっていた。ただし、彼らは決して領域的な治水対策を行った訳ではない。12世紀頃に始まる中世社会においても事情は変わらず、荘園・公領の支配者・権利者たち、すなわち荘園領主・在地領主・受領・在庁官人らは、職の体系の制約の中で、自らの権利が及ぶ範囲内で治水対策を施したのである。12世紀以降、新たに治水の担い手として登場したのは、東大寺および西大寺などの勧進僧たちである。重源や忍性に代表される勧進僧らは、勧進活動の一環として治水にも取り組んだ。勧進僧らの治水事業は、例えば備中国成羽川の開削事業などが知られている。14世紀に入り、独自の自治権を獲得した村落、すなわち惣村・郷村が登場すると、これら惣村・郷村の構成員である百姓のほか国人らも、自ら治水対策を講じるようになった。
領域的・体系的な治水が本格的に復活するのは、戦国時代・安土桃山時代(15世紀後期 - 16世紀末)のことである。